それは・・
古い古い宿場町・・・
時代に翻弄され・・
時間に取り残された宿場は・・
おっさんの心をゆさぶる・・
時刻は9時15分
現在位置は
このあたり・・
まだ半分くらいかなぁ・・
おっさんの記憶では苦もなく行けた気がするが
今回はすでに足が痛くて苦労してる・・(´;ω;`)
単純に体力不足なんだが・・ちょっと帰りたくなってきた・・
道はここから
ヘアピンを書くように高度を上げていく
現在高度は
900mくらい・・
目指す三斗小屋の宿の標高は1100mくらいらしいので
あと200m登る・・
もう一度・・言う!! 200mも登んのかよ!!
(´;ω;`)ブワッ
(;´Д`)ハァハァ・・疲れてきた・・
上り坂嫌い (´・ω・`;)
これは・・かなり大体的な山火事用心!
大田原営林署になってんな・・
大田原営林署は現在の塩那森林管理署となっているようで・・
開設は明治22年とHPに書いてあった・・
すげー・・昔からある・・
うん?・・・
なんか・・音?・・声のような
「キョン」とか「キャワン」とか形容しづらい声が聞こえる・・
なんだろう?・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
すげー怖い・・・(´;ω;`)
すぐに鳴き止むかと思ったが・・ずっと鳴いている・・
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
かなり遠くで鳴いているようだけど・・とりあえず熊よけの鈴とホイッスルを鳴らしまくって
早めに先に進むことにしよう・・(;´Д`)・・・
しばらくすると聞こえなくなってきたが・・・
周りに気をつけながら進むか・・・
これは・・
重機の跡っぽいな・・・時々道を治すのに入ってんだろうな
ここまでの道も・・崩落とか皆無で綺麗に整備されてたもんな
ぬぬう!?・・
なんだこれ?分岐か???
おかしい・・地図上では
そんな道・・ないんだけどな・・
でも・・よく見ると・・
目指している場所は・・この道の先にあるような・・・
(`・ω・´;)・・・??
でも砂防ダムの標記もあるし・・砂防ダム建設の道っぽいな・・奥まで行けんのかなぁ・・う~ん・・どうなんだろう?・・
広くきれいな気はするが・・よく見ると奥の方は廃道っぽいし・・
よくわからないな・・
・・・でもさ・・さっきの鳴き声がこの山奥の方から聞こえたんだよな・・
やめとこう・・ここは当初の計画通り・・三斗小屋宿跡から行こう・・・
よし!前進だ!!(`・ω・´)!!
・・・そしてこの決断がおっさんの体力を極限まで削ぎ落とすことにななる・・・
これは・・・
これは・・道標・・
直進は目的地の三斗小屋宿跡・・
右は
麦飯坂
麦飯坂・・たしかここから沼ッ原に抜ける会津中街道となる長い長い坂道・・
その昔三斗小屋宿の人が板室に行った帰りに・・沼ッ原から
「今から帰るから飯を炊いておいけよ~!」(゚Д゚)!!
と大きな声でどなっておいて坂道を下り・・三斗小屋の宿につくと
なかなか煮えない麦飯もちょうどよく煮えてることからついた名だという・・
以前おっさんも通ったことがあるが下りもきついが・・
上りであの世の片隅が見えるほどきつかった(´;ω;`)・・・
もう行きたくない坂道だ・・
さて・・この標記の横に・・
古そうな・・旧道標が・・・
何がかいてあるか・・ほとんど分からないが・・
とある本によると・・
寛政5年(1793年)と掘られていて・・
「右ハやまみち 左ハ板室みち」と掘られているとか・・
うむ・・歴史の道に入ってきたな(*´Д`)
道は・・気持ちのよい感じで続いていく
時々分岐っぽいところがあるが・・
少し行くと合流してるので
多分・・旧道かな・・・
振り返って撮影
この三斗小屋の宿は・・先にある三斗小屋温泉関係の方の車が来ると聞く・・
そのために車で来やすいように道の形を変えたと予想・・舗装もしてあるし・・
おっさんの中では・・道は変化してこそ道だと思ってるんで
これはこれで趣のある線形(*´Д`)ハァハァ
むうう・・・これは・・
石碑・・・ お墓だ・・
多分ここ・・三斗小屋の宿でなくなった方々が眠ってるんだろうな・・
新しい花も供えられているから・・今でも来ている方がいるのだろう・・・
これは・・??
戦死若千の墓・・・
ここ・・三斗小屋の宿は・・
会津中街道の宿として設置されたんだけど・・
もともと会津中街道と言うものはなく・・
主要街道は会津西街道といわれる
会津から現在の五十里ダムをこえて旧今市市に至る街道がメインルートだったらしい
この街道は・・会津藩にとっては参勤交代などにも使う超重要ルート・・
しかし・・1683年9月1日・・・
日光から南会津をマグニチュード6.8の大地震が襲う・・
これにより現在の五十里ダム近くの山・・葛老山が崩壊・・
流失した土砂で下を流れる男鹿川せき止められる
そのために・・90日で村が沈み・・・
水深が47mに達するという・・天然ダム五十里湖が出来てしまった・・・
もちろん・・ここを通っていた会津西街道も通行止め・・
(´・ω・`)
そのために会津から江戸への年貢として送る米・・11万俵が滞りがちに・・
困った会津藩は1695年に会津から那須にある標高1468mの大峠をこえ
氏家(現在のさくら市)に至る会津中街道を整備したという・・
そして国境となる大峠を堺にして北側に野際新田宿
南側に三斗小屋宿を設けた・・
会津中街道は・・もちろん大名行列が通り・・記録では合計4回参勤交代に使用されたという
更に白湯山信仰という山岳信仰が流行りだし1858年4月8日の山開きには1008人の行者が訪れたとか・・
そんな三斗小屋だが・・1868年
新政府軍と旧幕府軍の内戦・・戊辰戦争が勃発
旧幕府軍となる会津藩も参加・・・そして
国境の地となる・・三斗小屋宿も巻き込まれていく・・
1868年8月22日・・三斗小屋に居た会津藩の守備隊は100人余・・
対する三斗小屋討伐に参加した新政府軍は200人余人ともいわれる・・
圧倒的な戦力差がありながらも・・
会津軍は勇敢に防衛・・新政府軍は苦戦さらに逃亡までいったらしい
しかしその時降っていた雨と霧が煙幕となり・・・たまたま左右追撃する援護が加わり
備えを立て直し
会津軍は敗北となった・・(´;ω;`)・・
激しい戦いで三斗小屋の宿は全戸焼失したという・・
この石碑が・・それなのか・・
この・・山深い場所で・・多くの若者が山中を駆け巡り
・・そして命を落とし・・
この・・山深い場所が・・歴史の流れに翻弄されまくったのか・・・
感慨深い場所だ・・・(´;ω;`)・・・
そんな思いを胸に・・・
おっさんの目に
三斗小屋の宿跡が・・見え始めてきた・・